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June 16, 2011

*鈴蘭灯のことなど

4年生向けのゼミで、何か自分の専門について話す時間があり。
今やっている研究テーマを紹介する一方で、
最近、震災を経て思い出してる同潤会アパートについて取り上げてみた。
うちの大学で同潤会アパートについて熱心に教えてくださっていた先生は
他へ移ってしまわれたので、最近の学生はあまり詳しく知らないかなあと思って。
話してみたら、やっぱり、あまり詳しくはなかったようで、
写真盛りだくさんにしたおかげで、少しその理念と魅力が伝わったならよかったなと。

「ホームページ」をつくりはじめた頃には
「architecture」のページもあって、
大学4年生〜修士の頃のそれはそれは拙い文章を掲載していたりした。
研究者としてやっていくようになり、内容が稚拙だったのに加えて、丁寧に基礎データなどを載せていたら、そのままきれいにコピーされたレポートをこの目で発見したのもあって、なんとなく止めてしまったのでしたよ。
でも、ネットで得られる情報の面白みってまだまだあるよなあ、と。
本日、以前から少し興味のある戦前期の街路灯「鈴蘭灯」について検索をかけていて思った次第。地方の商店街の戦前の写真、たくさん出てきて楽しいです。

「鈴蘭灯」はたとえばこんな。これは昭和初期の台中(台湾)で。
taichung_suzuran.jpg
興味を持って調べてる方の新聞記事(日経新聞2009.05.26)などから、こちらも原典にあたったりして。一応、そのはじまりは京都の寺町通り、当時の「京都電燈株式會社」が、武田五一にデザインしてもらった鈴蘭灯が嚆矢だとされていることを知る。
もとは京都電灯が「燈火の隧道の如く観られるアーチ式照明方法」を思いついて、でも祇園の山鉾巡行に支障ないように…と武田五一に委嘱した結果「アーチの中央部を切離した」鈴蘭型の街灯が実現したそうな。それが大正13年。
そこから昭和初期にかけて、京都だけでなく日本各地、そして日本統治下の台湾や韓国の都市でも、大流行してる。デザインも、似たものからかなり凝ったもの、特殊なのなどいろいろ。

こういうこと調べてるときって楽しいんだよなー。
ちなみに鈴蘭灯、京都電燈社史で自ら「道路装飾美の点より見れば多少の異見もあらうかも知れぬが」などと述べている。でも「わが国の道路及び国民の嗜好に適していたものか」神戸元町通、横浜や東京にも現れ、広島市は全主要道路の殆どすべてが鈴蘭灯だったそう。ふむふむ。です。